私の救いが、私を苦しめていた話。と、やっぱり救われた話
以前、「自分が何を考えているのか分からないことへの恐怖」というタイトルの記事を書いたことがあります。ちょっと所々ポエミーすぎて恥ずかしくて、ずっと非公開にしてあるんですけど。
ざっくり要約すると、物事にはすべて理由があるいう考えなので、理由がわからないことがあると不安になる、だから解決できると嬉しい、これからも物事の分解と理由探し頑張るぜ!みたいな話です。
これを読むのはおそらくフォロワーが大半なので「またアイツあのテーマの話してるよ」って感じだとは思うんですが……本当にいつもこの話してるな……。
今回は、そんな私の「考え癖」にまだまだ私も無自覚だった、という反省?と、次回やらかさないための備忘録です。
先日、少し悲しい出来事がありまして、というかまあそれ自体はずっとあったんですけど、とにかく、それに突然きちんと向き合う羽目になりました。
もう本当につらくてつらくて、でも私に何とかできることでもなくて、ただひたすらにメンタルへのダメージが蓄積されてたんですね。いつもならメンタル面のトラブルって、分解して原因を客観視することで楽になれるんですが、どうしてもそれが上手くいかない。
だって分解するまでもなく、原因ははっきりしてます。その「悲しい出来事」です。
ところがその、辛いことがあるから辛い、という1+1=2以下の単純な、1=1みたいな理由を前にしても、なんの解決にもなりませんでした。
「得体の知れない苦しみ」の得体が知れれば、いつもなら苦しみは0とはいかずとも多少は減るものなのですが、ちっとも減らないのです。
そもそも得体が知れたからって苦しみがなくなるなんて、誰も保証してくれない、ただの私が思っているだけのことです。(というか、得体が知れたことで「なんだ、大したことないな」と思って、悩まなくなることが重要なので、大したことに対しては使えないんだと思う)
でも、それは何回も私を助けてくれた救いです。理性では「辛いから辛い」と結論づけた後も、もっともっと分解すれば理由が見つかって苦しくなくなる、と無意識に思っていたわけです。「得体が知れてる」と認めたくなかったとも言えます。得体が知れてるのに苦しいのは、私の信仰に反することだからです。
そこで、なぜつらかったのか、何が悲しいのか、常にうっすら考え続けていました。あくまでも無意識に、です。でも考えても何にも解決できない。ただ何が悲しかったかはいくらでも出てくるんですね、後悔とか、何回も何回も自分でわざわざ掘り返してました。
結果として私はその信仰に無自覚なまま、得体の知れた1の苦しみを、10にも100にも膨らませることになりました。悩まなくなろうって悩みまくるなんて、馬鹿だなーって思うんですけど、なにせ無意識なので気づいてなくて。ただ「どうしてこんなに考えたくもないのにたくさん浮かんでくるんだろう」って思ってました。馬鹿すぎる。
苦しみながらツイートしまくってたら、いつものごとくフォロワーからのリプで新たな知見を得られたことで、無自覚の信仰に気づけました。いやー危なかった。
こうして私の苦しみは100から1へと元通りになりました。もちろんめちゃくちゃつらいけど、だいぶマシだし、何よりきちんと本来の「悲しさ」に向き合えるので良かったなぁと思っています。
「なんでも深掘りすればいいってものではない」という自戒で、この話を締めくくろうかとも思ったのですが、100あった苦しみを1に戻してくれたのは、やっぱりこの「分解」なので、信仰はイマイチ揺るがなそうです。
いやでもそもそも信仰がなければ1が100にならなかったのでは?それってもはや信仰による悩みのマッチポンプでは?という疑惑もありますが……少なくとも、今回はそこに気付けただけで成長だということにしたいと思います。
自覚して信仰に向き合えば、こういう無駄はかなり減ると思うので。